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星界の道~航海中!~

星界の道~航海中!~

「正本堂」に就き池田会長に糺し訴う(2)

 四、遁辞を遮る

 此処に於て或いは遁辞を構えて云うべし。
現時点に於て未だ三大秘法抄の条件満足せざるは勿論なり、故に不開門は未だ開けず、但し建物だけは前以て作りおくのみ、故に後を以て前を称するに事の戒壇と云うも可なりと。
されば屡々聞く『銅像と除幕式」云々と。

 今、この遁辞を遮らん。
 前以て建物を作るを大聖人若し許し給うならば、何ゆえ三大秘法抄・一期弘法抄の御定めはありや。
両抄共に戒壇を立つる前提条件を定め給いてのち誠めて云く「時を待つべきのみ」と、既に此の御制誠に背く。(是れ一)

 また、大聖人は一国の謗法を許し給わず。故に三度諌めて後、なお改悔せぬ幕府を見ては政都に留り袷う事なし。
その後は『何なる主上・女院の御意たりと云えども」(教行証御書)と仰せられて深山より一歩も出給わず。
これ一国の謗法を容認せず、与同せざるを示し給う御振舞いと拝し奉る。されば御滅後に於ても広宣流布以前には大御本尊を固く深く厳護し奉り、時来らざるうちの参詣はなお御内拝と申し上げるのもこの御意と窺い奉る。
然るに未だ一国に謗法充満の時、これを責めず、勝負も決せざるうちに前以て立て遺命達成と内外に誇耀せば、すでに一国の謗法を容認するに当り、破邪立正の本旨に背く。(是れ二)

 また、前以て少数の信徒を以て立て了るとならば、将来一国同帰の時の国主並びに万民は何を以てその志を表わすや。されば会長自ら曾って云う『全国民の総意において建立されてこそ、はじめて本門戒壇として意義がある。もしわずかの有志だけで建て、わずかの有志だけが功徳をうけようというのでは大聖人の御本意に反する。
また一節の人だけが参加して建てたが、参加しなかった多数の人たちが後から後悔してもおよばないであろう」
(仏教哲学大辞典)と。文中自ら今の正本堂を指して「大聖人の御本意に反する」と定め置く。(是れ三)

 更に歴代上人は御宝蔵の御説法に七百年来伝えて云く「富士山の麓に天母ヶ原と申す礦々たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立あって云々」と。されば場所すでに異る。(是れ四)以上。
 前以て立ておくことの通ぜざることかくのごとし。

五、「事の戒壇」の定義について

 次に「事の戒壇」の定義について確認をしておかねばならない。
その故は、昨年五月の学会総会に於て、猊下が「正本堂は事の戒壇である」と仰せられたことに就き、"猊下も既に御認承"と、かえって誇称するを屡々聞く故である。
総会に先立って森田副会長に念を押した憂いの一つはこれであった。
 申すまでもなく、猊下がたまたま仰せになられた「事の戒壇」とは、宗門古来の定義とは全く別な意味であられる。
促来宗門に於ては、一天広布の暁に事相に立てられる国立戒壇を「事の戒壇」とし、その実現こそ宗門のいのちをかけた悲願であった。
だか、諸々の法相は所対によって異ると、さればいま猊下の仰せ給う「事の戒壇」とは、この広布の時の「事相」に約し給うものでなく、所性の法体の「事」に約し給うたものである。
即ち、戒壇の大御本尊おわします所は何処・何方にても直に「事の戒壇」と定義せられたのである。
従って、曾っての御宝蔵も、また現在の奉安殿も「事の戒壇」であり、将来正本堂にお遷り遊ばせば同じく「事の戒壇」であるとの御
意であられる。
此のことは、昨年四月二十七日の大客殿に於ける御説法に明かである。
即ち「この御本尊在すところは事の戒壇で、この御本尊が事の御本尊である。事の御本尊である故に、この御本尊在すところは事の戒壇でございます。だからその御本尊が、たとえ御宝蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿に安置し奉ってあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉っても、その御本尊在すところは何処・何方でも、そのところは即ち事の戒壇であります」と。
猊下の御意は以て明かである。

 だが、学会で従来用いて来た「事の戒壇」の意味は宗門古来よりの定義に準じている。
その定義を以て「正本堂を事の戒壇」と断定するから仏法の違背というのである。
 此の義を明確にする為、まず先師の御指南によって宗門古来の定義を示す。
いずれの先師上人も三大秘法抄の御遺命たる広宣流布の暁の事相の国立戒壇を「事の戒壇」とせられ、それ以前の大御本尊在す処を「義として本門戒壇に当る」即ち「義の戒壇」とし、また末寺・在家の持仏堂も遠くはその義に当る旨を定義し給うておられる。
 
 初めに日寛上人
「本門戒壇に事あり、理あり。理は謂く義理なり。是れ則ち事中の事理にして法門の理戒に同じからず、其の名に迷うこと勿れ。故に亦義の戒壇と名づけんのみ。初めに義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処は即ち是れ義理・事の戒壇に当るなり。経に云く当知是処即是道場は是れなり、天台云く仏住其中即是塔義等云々、故に当山は本門戒壇の霊地なり。亦復当に知るべし、広宣流布の時至れば一問浮提の山寺等に皆嫡々書写の本尊を安置す、其の処皆是れ義理の戒壇なり。乃至 次に正しく事の戒壇とは、秘法抄に云く『王法仏法に冥じ仏法王法に合して、乃至 事の攻法と申すは是なり』等云々」(法華取要抄文段)
又云く 「未だ時至らざる故に、直ちに事の戒壇これ無しと雖も、既に本門戒壇の御本尊存する上は其の住処は即ち戒壇なり」(寿量品談義)
又云く 「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と。

 また日量上人は
「事の戒壇とは正しく広宣流布の時至って、勅宣・御教書を申し下して戒壇建立の時を事の戒壇と云うなり、三大秘法抄に云く云々」(本因妙得意抄)と。

 日霑上人は
「一天四海皆帰妙法と唯だ此の妙法耳広宣流布せん時、勅宣・御教書を賜って日本国中にして最も勝れたる霊山浄土に等しき砂地をえらび、一間浮提第一の大道場を建立し、八万の国王を始め国々の大臣已下万民に至るまで一人も漏れなく此の大道場へ詣で本門の大戒を受けて懺悔滅罪する耳ならず、大梵天王・帝釈等の守護の諸天までも来臨影響在て衛護し下う処の大道場、之を本門事相の戒壇と申す云々」(報恩抄抄御談義書)と。

 日亨上人は
「この戒壇について、事相にあらわるる戒壇堂と、義理の上で戒壇とも思えるの二つがある。事相の堂は、将来一天広布の時に、勅命で富士山下に建ち、上は皇帝より下は万民にいたるまで授戒すべき所であるが、それまでは、本山の戒壇本尊安置の宝蔵がまずその義に当るのである。末寺の道場も信徒の仏間も軽くは各々その義をもっていると云える」(正宗綱要)
又云く 「此の戒壇に事・義の二あり。国立戒壇は事なり、是れ未来一天広布の時の勅建によるべきが故に。其の時に至るまでは本寺の本門戒壇本尊安置の宝蔵を以て暫く此れに充て、授戒・脱戒等の儀を執行す。即ち義として戒壇に当る。末派の道場も亦此の意に依って戒儀を行うときは分に此れに準ずと云うべし」(日蓮各教団の概観)
又云く 「事の戒壇とは、天子将軍帰依の時至り、富士天母ヶ原に戒壇堂を建立し、宗祖弘安二年造立の本門戒壇の御本尊を懸け奉り、一閻浮提の天子・将軍を始め奉り、上は大梵天王・帝釈天王、下は一切庶民に至るまで三帰戒を授る道場なり。三帰戒とは下種の三宝に帰敬するなり、所謂日蓮大聖人(下種の仏)・一幅の大本尊(下種の法)・日興上人(下種の僧)なり、是れを末法万年広宣流布の事の戒壇と云うなり。三大秘法抄等是の意なり」と。

 日淳上人は
 「御文(三大秘法抄・一期弘法抄)に、王法と仏法と冥合して、国主が此の法を御用いの時は此の戒壇が建立せられる。それを事の戒法と申すと仰せられるのでありますから、その時の戒壇を事の戒壇と申し上げるのであります。従って、それ以前は御本尊のましますところは義理の上の戒壇と申し上げるべきであります。仍って此のところを義の戒壇と申し上げるのであります」(日蓮大聖人の教義)と。

 日達上人も亦仰せに云く
  「事の戒壇とは富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立であります」(大日蓮一八三号)と。
 宗門古来よりの定義は明々白々以上のごとくである。更には日開上人の御宝蔵に於ける御説法、若し全文を拝し了れば御意炳焉として亦鏡にかけて曇りなし。歴代先師上人の異口同音・一糸の乱れなき御深意、只々有難く伏して拝し奉るのみ。
 されば学会に於ても、この古来よりの定義に準して自ら「事の戒壇」の用語を用い来ったのも当然である。

故に折伏教典(改訂三五版)には
 「戒壇とは広宣流布の暁に本門戒壇の大御本尊を正式に御安置申し上げる本門の戒壇、これを事の戒壇という。それまでは大御本尊の住するところが義の戒壇である」と云い。
又「本門の御本尊がおいでになっているところが義の戒壇であり、広宣流布の時建立される戒壇を事の戒壇と申し上げるのです。
現在はまだ広宣流布が達成されていませんから、義の戒壇ということになります」(大白蓮華一五四号)

 更に池田会長自身も
 「立宗ここに七百三年を過ぎ、仏命たる富士山に本門寺の戒壇の建立は未だならず『時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり』の御予言こそ残された唯一つの大偉業であり、事の戒壇の建立につきる。これを化儀の広宣流布と称し、国立戒壇の建立というのである」(大白蓮華五六号)
又云く
 「いま末法にはいり、日蓮大聖人の三大秘法の仏法においては、本門の本尊まします所が義・戒壇にあたる。乃至 ここに日蓮大聖人御遺命の戒壇建立とは事の戒壇であり、『三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法』である」と。

 定義はそのまま宗門の伝統である。だが、この定義を以て「正本堂を事の戒壇」とする所に重大な誤りが生じたのである。この誤りを改めもせず、たまたま猊下が仰せられた別意に約し給う「事の戒壇」を隠蓑として、依然として過去歪曲の主張が通用するごとく内外に見せかけているのは狡知としか云いようがない。

六、重ねて猊下の御本意を拝し奉る

 されば、紛わしき「事」と「義」の会通よりも、猊下御自身の御本意を確と拝し奉る事こそ所詮の大事である。
猊下の御意濫りに窺い奉るは誠に恐れ多いが、時に当ってすべてを決する鍵ここに在せぱ敢えて拝し奉る。
 四十年二月十六日の御説法の御意については先の一書に既に拝し奉れば此処には略す。
其の後における御指南を拝するも、猊下は正本堂を以て三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇とは断じて認め給わない。
此の旨はすでに昨年五月二十九日、妙信講の代表と共に、学会代表たる森田・秋谷・和泉の三氏も直々に確と承った所である。
また昨年四月六日の御影堂に於ける御説法を拝すれば、更に明瞭である。
即ち 「この本門事の戒壇建立は、小乗の戒壇や法華経法門の戒壇には似るべくもなく大難事な事でございます。『仏法は体のごとし、世間は影の如し,体曲れば影斜めなり』の大聖人様の御言葉を深く了解する事が出来なければ『王法仏法に冥じ、仏法王法に合し』の御言葉は理解出来ません。今日の唯物的考え方では受け入れ難いのであります。而しながら、有徳王・覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並に御教書があって霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来る、との大聖人の仰せでありますから、私は未来の大理想として信じ奉るのであります」と。
 既に三大秘法抄の御遺命の戒壇を指して、「私は未来の大理想として信じ奉る」と仰せ遊ばす。
猊下の此の御意仰いで拝すべきである。

 更に昨年六月九日の一宗務院文書、即ち要行寺住職・八木直道尊師の提出した「御伺書」に対する宗務院の回答書を此処に挙げる。
此の書は日蓮正宗総監の名を以て執筆され、すでに一部の御僧侶にも配布されたものであれれば、猊下の御意を体した宗務院の公式見解が表明された文書として依用する。
文中、八木尊師が「正本堂が若し事の戒壇とならば、何故最勝の地を尋ねずに墓地を堀り返えして建てるのか」と質すに判然と答えて云く 「正本堂が三大秘法抄等に示したまう最極の戒壇でない以上、奉安殿に引き続いてより大なる戒壇御本尊格護の殿堂として建設する場合、大石寺境内またはそれに隣接する地所を撰ぶことが諸般の実状と便宜上当然のことである」と。
 瞭々として一点の疑問の余地もない。正しく正本堂は、奉安殿の延長として国立戒壇建立の暁まで戒壇の大御本尊を厳護し奉る堂宇なのである。たとえ規模・荘厳は改まるとも、仏法上の意義は己然として大御宝蔵・大奉安殿たる事少しも変らない。
 ここに於て思い起されるのは、奉安殿落慶における、時の御法主日昇上人の凛乎としたあの御宣言である。
  「血脈付法の法主を継げる日昇之を受納して戒壇本尊奉安殿と名付け、此処に戒壇本尊を永久に安置し奉るなり。時を待つべきのみ事の戒法とは之なりの金言を身に体して、必ず来るべき国立戒壇建立の暁まで守護すべし。後の法主も一心同体たるべきを確信する」云々と。
 此の日昇上人の御宣言は今に厳然と生きている。
若し広宣流布以前にこの意が失われれば、宗門七百年の悲願は消え失せる。
 然るに学会はかかる先師の御意志をも無漸にもふみにじっている。
即ち仏教哲学大辞典には、奉安殿の説明に日昇上人の此の文を引用しながら、勝手に御文中の「国立」の二字を削除し、次いで承けて云く「……とあり、奉安殿安置の三大秘法の御本尊を本門戒壇建立まで厳護する旨述べられた。そしてその意志は今や正本堂建立により達成されんとしている」と。恐れを知らぬ無漸無傀とはこの事ではないか。

七、許し難き国家への欺誑

 更にまた許し難き事がある。それは国家に対する積極的な誑惑である。昨年四月、政府より創価学会に対して、国立戒壇の意義について正式な照会があった。学会は何と答えたか、その回答文に云く

「一、本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心とする場所のことで、これは民衆の中に仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建てられるべきものである。

二、既に現在、信徒八百万人の参加によって、富士大石寺境内に、正本堂の建設が行なわれており、昭和四十七年十月十二日には完成の予定である。これか本門戒壇にあたる。

三、一時、本門戒壇を"国立戒壇"と呼称したことがあったが、本意は一で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行うのであって国家権力とは無関係である。」と。

 云うがごとく、国家と無関係に、宗門の事業として勝手に立ててよいものなら、何ゆえ三大秘法抄・一期弘法抄の御定めはあるのか、大聖人の御遺命を曲げる事これより甚しきはない。
 嗚呼、歴代先師上人は国主の尋ねもなきに、大聖人の御意に叶わんと身命も惜まず国家を陳暁し給うに、いま創価学会は国家から尋ねられてなお我が身の為に仏法を曲げている。「無道心」とはこれである。
 あの日目上大の御振舞い、正宗信徒なら誰か涙なくして拝し得よう。思うに、上人にして自らの命数を知り給わぬ筈はない、既に七十四の御頽齢・敢えて諌暁の長途を企て給うは何ゆえか、御覚悟の上とは云いながら、途上美濃の寒風に手足凍えて一歩も進み給わず、垂井の宿にて遂に「臨終の御勤めましまして両眼眠るが如く、ロ唇誦するが如くに息止みたもう」(家中抄)と。
この御尊姿只々ひれ伏して涙を以て拝し奉るのみ。
而して未だ志を達し給わず、その御胸に懐き給う申状に云く
 「日目先師の地望を遂げんが為、後日の天奏に達せしむ」と。
 「先師の地望」とは大聖人の御本願たる王仏冥合・国立戒壇の建立のほかにはあらせられない。
悲しいかな、いま学会は国家の尋ねに対して、大聖人の本願は四十七年の正本堂と欺いたのである。
 しかも、宗門にこれの同調を求める理由に云く「若し国立戒壇を云う者があれば、憲法違反にて宗門は解散させられる。
たとえ公明党がつぶされようと学会が解散させられようと、日蓮正宗さえ安泰ならばよい、それが学会の精神である。
故にお山を守る為には一人も国立戒壇を云わぬように」と。為に心ある御僧侶まで、これを本気に信じたのである。
 だが憲法は、宗教団体のいかなる教義・信条に対しても、国家権力の不介入を保障している。
たとえ「国立戒壇」を教義として主張しようとも、国権による不肖な弾圧は断じてあり得ない。
これが憲法の精神である。いや法学上の解釈だけではない。すでに政府すらその立場を前以て表明していたではないか。
即ち共産党その他が、国立戒壇を憲法違反とし、これを目的に政治活動をする学会を宗教団体の目的から逸脱せるものとして政府に詰問・対策を迫った際、政府の答弁は、道理至極であった。
即ち 「ご質問の趣旨は、現行憲法の下においては、国が国立の宗教的施設を設置することが許されないのであるから、そのような違憲の事項を実現することを目的とする政治活動を行なうこともまた憲法上許されないのではないかという点にあると思われるが、事理としては憲法を改正しなければ実現することかできない事項であっても、その実現を目的とする政治活動を行なうことか直ちに憲法違反になるわけではない。このことは、現に、政治活動として憲法改正の主張をすることが許されていることからみても明かであろう」と。

 まことに理路整然、現に再軍備等の為に憲法改正を訴える諸々の政治活動すら許されているを実例として、国立戒壇がたとえ憲法改正をしなければ実現不可能な事であっても、それを目的とする政治活動すら許されるとの政府答弁である。
 況や、日蓮正宗が政治活動ならざる純粋なる宗教的立場から国立戒壇を叫び訴えるのが、どうして法律で咎められ、解散をさせられようか。
こんな事は法学上の初歩の常識である。賢明の学会にして百も承知である。然るに、仏法には通達せるも世間の法律には疎い御僧侶の、而も護法の心情につけ入り、国立戒壇を抛つことに同調させて了ったのである。
日蓮正宗を守る為とは云いながら、実は学会・公明党を守る為に宗門に口裏を合わさせたものに過ぎない。
 政府すら合法と認める国立戒壇の主張をなぜ自ら否定したのか、まともに考えればこれ以上不可解な事はないが、詮ずる所狙いは唯一つ、政治進出の便を計る以外にはない。
国立戒壇を云えば選挙に不利である。よって前々からこれを否定して来たのだ。当時、たまたま言論問題等により世論の反撥が巻きおこった。それは政党間の争いに発展し、共産党等はこの時とばかり、学会が曾って唱えた正論である国立戒壇論を取り上げ違憲と貴めたてた、そして遂に池田会長の国会喚問にまで及ばんとした。
この状況に驚いた学会は、政府の照会を機に、一も二もなく国立戒壇を公式に文書を以て否定、ここにいよいよ公然と国家を欺いたのである。
 佐渡御書に云く「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし、例せば日蓮が如し」と。
仏法を知らぬ共産党ごときが、国立戒壇の正義を詰り大御本尊の誹謗までするのを見なから、何ゆえ池田会長は大聖人の御義を
守って斗わなかったのか。
 若し会長に信念あるならば、国会喚問に堂々と応ずるべきではなかったか。
全国民注視の中で大聖人様の御精神を訴える事が出来る、仏弟子として之に勝る本懐はない。
国立戒壇は単なる一宗派の宗教目的ではない、実に国益の最たるもの、国家安泰の唯一の秘術である。
されば国会喚問こそ「全く身の為に申さず、神の為・君の為・国の為・一切衆生の為」と仰せられた大聖人の御心を伝え、国立戒壇の精神と必要を強く訴える唯一の好機ではなかったか。
たとえ聞き入れようと入れまいとそれは相手の勝手、仏弟子はただ身命を抛って正義を訴えればよい。
それが国土を利益する「寧喪身命不匿教」の仏子である。大聖人様は恐れ多くも平左衛門の暴戻なる取調べに対しても応し給い、その堂々の師子吼・整然の道理は、遂に平左衛門の口をして鼻のごとくに為さしめ給うた。
常日頃、大聖人をなお摂受として自らを折伏の大賢王とする池田会長か一体これはどうしなことか、しかも以来ばったりと折伏の声は消え、宗教の邪正は論ぜられず、云う所はただ世間に阿ねる甘談詐媚巧言令色の類いのみとはなった。
 抑、大聖人の御義を曲げては何の為の政治進出か。
曾っては学会の政治進出の唯一の理由は国立戒壇建立を訴えるにあったと聞く。
されば先代会長は「我等か政治に関心を持つ所以は三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。
即ち国立戒壇の建立だけが目的なのである」また「しからぱ文化活動の内容は如何にというに、まず政界に国立戒壇建立の必要性を充分に理解させることである」と示している。
政治進出か広宣流布の手段として適切かどうかは別問題として、その云わんとする精神は充分理解出来る。
これでこそ大聖人様にも通じ功徳も生ずると確信する。
 だが今やどうなったか。池田会長自ら昨年の総会に於て、「後世の為に確認しておく」と前置きして、国立戒壇を否定した上に更に云く「政治進出は戒壇建立のための手段では絶対にない。
あくまでも大衆福祉を目的とするものであって、宗門・学会の事業とは無関係であることを、再度、確認しておきたい」又「公明党は宗教的には中立を貫く」と。
これでは存在意義はすでに失われていると云わねばならぬ。
宗教の邪正も諭ぜず、国立戒壇も訴えず、ただ政治次元の党利党略に狂奔しているだけなら、何等他党と選ぶ所はない。
却って国家に混迷を増すだけではないか。
 伏して案ずるに、大聖人の御精神は立正安国に尽き給う。
而して立正の前には必ず破邪がある。
破邪とは謗法禁断であり、立正とは詮ずる所国立戒壇である。
されば、語法禁断・国立戒壇建立こそ大聖人の御心の実践である。
 然るに今の学会は政治進出の為に遂にこの二ともに抛った。
而も口で云うだけで足らず、謗法禁断を蕩す為にはかの「『聖人展』を開き、国立戒壇を否定する為には俄かに正本堂を立ててすりかえたのである。
 而も恐るべし。謗法同座の「聖人展」には之を厳絨し給う日興上人の御影か計らずも用いられた。
いま国立戒壇否定の正本堂に念いを至せば、思わず慄然とせざるを得ない。
 嗜呼、悲しいかな、政治進出の為に御本仏一期の御遺命を曲げ、正本堂を宗門の悲願と詐る、而もこれを以て我が身を挙げる。かかる僻事が亦とあろうか。
 ここに断言して憚らない。かかる正本堂こそ、上は日蓮大聖人の御遺命に背き奉り、歴代上人の悲願をも破り、御董職上人の本意に達し、下は八百万信徒の純信を欺き、外には一国を誑すものに外ならぬ。
その上、静かに休み給う歴代上人の御墓所まで発き奉る。
若し深く懺悔訂正せずんば我身も宗門も国家も取り返えしの付かぬ事になるは必定である。

八、懺悔訂正を訴う

 殊に憂えるは国家の濁乱である。国の柱たる唯一の正系門家に、かかる重大なる仏法の歪曲あれば、国家に影響のない筈はない。故に大聖人の御金言に云く
  「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし、体曲れば影ななめなり」と。
 既に昭和四十四年五月、かの謗法同座の「聖人展」を見た時、この憂いを懐き再三の諌訴を為すに、宗務御当局は現前の計なればこれを無視。
だがその後僅か数ヶ月にして学会・公明党に思わざる災厄出来を見たのは、正しく政治の為に日興上人を辱め奉った御罰に非ずや。
 正本堂はそれには亦似るべくもない僻事である。
されば外には正本堂の完成を以て「立正の成就」と謳うも、世間は愈々濁乱の相を現じつつある。
「立正」すれば「安国」たることは体と影のごとくであるに、「立正」すでに詐りなれば「安国」また実現せず、大聖人を辱むる事これより甚しきは無い。
また内には信徒の血の惨む供養に対し、完成時の現の福報を以て期待させるに、四十七年の近づくにつれ、未曾有の不況出来して末端信徒の苦斗いかばかりか。
一切の蔵の宝を拗ったその純信を思いやれば痛々しく、徒なる浪費を見るにつけ、激しい憤りの湧くをおぼえる。
 それにも増して憂いなるは国土の衰乱である。
近年の不気味なる異常気象、これ国土いたく乱れんとする天の警鐘乱打ではないか。
既に戦後未曾有の経済変動は起り、国土には悪鬼入り乱れて人心を荒廃させ、国論は二分して収拾なく、国際政局また激動の時を迎えて予断を許さない。
まさに御金言のごとくに正法を立てなければ、恐るべき自叛・他遍も必ず到来するものと憂えざるを得ない。
 たとえ、一国に謗法充満して国まさに傾んとする時も、若し毅然として国を諌める者あれば国は亡びずと。
されは十一通申状に云く
  「諌臣国に在れば其の国正しく、争子家に在れば其の家直し」と。
 一国騒然たる今日、今こそ正系門家が謗法禁断・国立戒壇建立を訴え、毅然として一国を諌めねばならない。
然るに現状はどうか。既に「御遺命は達成」「事の戒壇も建立」とて、徒に空しき儀式を繰り返えし、その祝いと
て亦復虚妄を張り、王侯貴族の奢りを為すと聞く。未だ広宣流布は達成されてない、未だ謗法は国に充満してい
るのだ。宗開両祖の御悲みはいかばかりか。
されば「謗国の失を脱れんと思はば国主を諌暁し奉りて死罪か流罪かに行わるべきなり、我不愛身命・但惜無上道と説かれ、身軽法重・死身弘法と釈せられし是なり」(秋元抄)
又云く「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」(曾谷抄)
又云く「此等の禁めを背く重罪は目には見えざれども積りて地獄に堕つる事、讐ぱ寒熱の姿形もなく眼には見えざれども、冬は寒来りて草木・人畜をせめ、夏は熱来りて人畜を熱悩せしむるが如くなるべし」(松野抄)と。
また、二祖上人は御遺誠に云く
  「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて聴力弘通を致すべき事」と。
 宗開両祖の御誠め実に重し。然るに、自ら御金言に背き御遺命を曲げ、どうして一国の謗法を責め得よう。
究極の悲願たる国立戒壇を否定してどうして死身弘法が為し得よう。
この禍根すべては正本堂の歪曲より生ず。
 又、思い給うべし。いかに巨費を投じ、金銀を以て荘厳をするとも、一期の御遺命に背く殿堂を御本仏喜び給
うべきか。また、一国を欺く為の虚構に大聖人心よく住し給うべきや。仏意深く恐るべし、憤むべし。戒壇の大御本尊の願主は名もなき農民であった、だがその純信捨身の信心をこそ大聖人はお受け遊ばしたのである。
 されば此処に、正本堂の歪曲、真に懺悔を以て急ぎ訂正せざるべからず。依って次の二箇条を訴える。即ち

一、全宗門信徒に対し、正本堂は御遺命の戒壇ではない事を公表する事。

二、政府に対し、偽りの回答を微回し、国立戒壇の正義を示す事。

以上
右、二箇条が徹底せば、正系門家の化儀・化法たちまち純然として御在世に立ち還えり、御本仏大聖人の御守護をも蒙り、広宣流布の大願も叶うべきものと確信す。されば此処に、池田会長の大道心に強く訴えるものである。
 若し、学会の大を誇り、妙信講の小を以て其の言を卑しみ給うならば、悲しみこれに過ぐるは無く、必ず後海あるべしとも思うものである。
 然る時は、妙信講こそ日蓮正宗の法華講衆として、大聖人・二祖上人の命じ給うまま、一万世帯の団結を以て一死を賭して御奉公するのみ。たとえ途上斃るるとも、開目抄に云く「設い復命終すとも、なお持戒自利利他と名く」等云々。大聖人の御照覧なれば、すべては任せ奉る。            恐々
    
昭和四十六年十一月十五日
日蓮正宗妙信講
 講頭 浅井甚兵衛
本部長 浅井昭衛


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